昭和四十九年十一月二十日 朝の御理解
御神訓 「懐妊の時腹帯をするより 心に真の帯をせよ」
問題は真の帯をせよというところですね。大事なところは真の帯をするということは、どういうことであるか。最近は医学の上から申しましても、腹帯をするより腹帯はしない方が良いと言われておるそうですね。わざわざおなかを縛るより【 】、いわゆる自然に任したいわば産み方というかね。出産の時に、これは産婦人科の先生から聞いた話ですけれども。教祖様はもう百年も前にそのことを言っておられたということになります。
そういうことと同時に、けれども真の帯だけはしっかりしとかなきゃいけないぞと教えておられる、ね。真の帯。それを現代風に申しますと胎教ということを申します。
お腹に赤ちゃんがやどりましたら、母親はできるだけ良いものを見る。美しいものを見る。良い言葉を聞く。または良いお話を聞く。もう嫌なことやらは見てはいけない。いうならば根性の悪うなるようなことは触れない。そういう風な思い方はしない。できるだけ良いものを、だから器量の良い子を生むためにはね、いうならきれいな器量の良い映画俳優なんかの写真をずっと見とると、赤ちゃんも、器量の良いのができるというようなふうにまあ言いますですね。
ですからこわいものを見たり、いやなものを聞いたりすることは胎教によくないという訳です。というて、そう悪いことは聞かない、いやなものは見ないという生き方でおっても、もう見なければできない時がある。聞くまいと思うても聞こえてくることがある。そこで、いわゆる真の帯をしめておかなければいけないということになるのです。
以前田主丸のむつ屋の前身と申しますか前身というが、むつ屋で共励会があっております。その前は秋山さんというお婆さんの一人暮らしの人がありまして、もう大の私ファンでございましてね。そこに初めてお話に参りましたのが初めてです。初めて参りました日に、お部屋に夜叉の面が壁に掛けてございました。
鼻があって、それこそ口は耳までもさけておるといったようなすさまじい鬼の面です。夜叉の面です。で、その時に私は、その夜叉の面から、今のようなことを話したことでしたけれども、ほんとにだからそういうこわい鬼の面のようなものを、例えば、妊産婦が、毎日眺めておったら、それこそ鬼のような子供が出来ることになる、ね。
だから私はね、ああいうこわい面を見る時にです、ああいう恐ろしいこわい心が私の心の中にありはせんだろうか、と、いつも自分の心の上に反省をさせて頂くということになると、これはすばらしいことになる。
毎日毎日眺めて、いうなら夜叉の面を眺めておるだけで、それはそういう鬼のような、夜叉のような心をもった子供どんが生まれちゃならんけれども、それは夜叉の面を見せて頂く時にです、ああいう夜叉のような心が、私の心の中にありはしないだろうかと、見れば見るほど自分の心の中にきたない心、あさましい心がある。
そこでそういうものを見るたんべんに、自分の心が清められ、改まっていくということになれば、それはすばらしいことなのです。というて話したことをずっと思い出させて頂いた。ですからどういうこわい事を見ようが聞こうが、いやなことを聞こうが、いや、いやな問題が起ころうがあろうがですね、こちらの受け方、頂き方なのだと。その頂き方ができるということがです、私は、真の帯ということではなかろうかと思う。
見るまいとしても見なければ、そういう問題はいやだというても、その問題が実際に起きてくるならしかたがない。それは例えばです、どういうことを思うても、どういういやなものを見たり聞いたりして心をよごしてもです、または心を清めてもです、良いものを見ても良いものを聞いてもです、生まれてくるということにおいては同じこと。
けれども、せっかく生まれてくる赤ちゃんがです、良い胎教を受けて生まれてくるようなおかげを頂くためには、どうでもそういう有り難い、有り難いという受け方、頂き方。どういうものを聞いても、例えば恐ろしいものを見ても、自分の心の反省の芯にするというような生き方。そういう受け方がです、身についてくるということ。そういう受け方をすることが、私は真の帯をするということだと思うのです。
私は、今朝方からお夢を頂いた。『ちょうど小学生ぐらいな人達が、遠足かなんかに行くように、向こうの方から何十人かがずっと下ってくる。それを私も見ておるし、末永先生、それから西岡さん、西岡先生、みんな見ておる。それは見ておりながら、私が末永先生にあることを頼んでおったですね。であの事はしてくれたかねって私が申しましたら、「はいさしてもらいました。もうこの事もついでにさして頂いときました」と言うて、いわゆる気がきいた人ですから、もうこちらが言う以上の事をしておるという感じですね。私が、いうならば十の事を頼んだら、もう十五の事をしとる。ああそうと言いながら、私なんかちょっといやな感じがしたけれども、いやこれも神ながらだからと夢の中で思うておる』お夢でした。
例えば、十の事を頼んだら、「はい、さしてもらいました。ああさして頂きました。そして、あとまだそれ以上に、十五の事をさせて頂いております」とこう言う。だから、その十の事だけでよいと思うとるのに、五つの事まで、そりゃそのあたりまで、いりもせん事までしてから、というようなものがちょっと心にあったけれども、まあこれも神ながらだからというような感じでした。
『それから丁度、もう三階建てぐらいな大きな小学校というか中学校というか、ま、学校らしい。それを下からこう眺めておる。その屋上でやっぱり子供たちが、その体操のようなことをやっておる。屋上にはどこでも、こう手すりが付いてますけれども、手すりが付いてないんです。もうそれこそあのなんていうですかね、あの軽わざ師のように、もう上で、はああれがもう一つまちごうたらあんた下に落ちる、危ない。ところがもう実にあのう上手ですね。肩の上に三人位上がっておる。そしてこう体操しておるようなことをしておる。
そこに一本電線がこう引っ張ってある。そしてよろっとすると電線にこうやってつかまって、そのま、なかなか素晴らしい。けいこしとるちゃ、どんなことでん出来るもんだなあといったような様子であった。そしたらその次にです、その場面が見えなくなったら、その三階建てのこの学校のような、ずっとこう下から見ると窓が一杯ついとる。その窓の周辺に真っ黒うなるぐらいにですね、烏が止まっておるところを頂いた。
[三千世界の烏という烏をみんな殺して、そして主と添い寝がしてみたい]といったような歌がありますよね。烏ということは、いうなら朝方泣くんですね。ですからもう、があがあいうて、その言うとるという訳でしょう。もういっぱい暗うなるぐらいに、その烏が止まっておる。』というようなお夢でした。
『それからこちらへ眺めておる人の中に、鹿児島の行徳先生が眺めておられて、素晴らしいこったなあ、素晴らしいこったなあ、とこう言うておられるところでした。』それを私はどういうことじゃろうかと思うておりましたら、今日は、この御理解を頂きましたから、はあこの御理解のいわば内容だなと思うた。
このごろから、末永先生の学院の同期の人達が、ここへみんな集まって、まあいわば合楽示現活動の内容について、又私の話を聞いて下さることになって、一応信心実習会が催されました。それがこう小学生達が何人かこう群がって来よるのを見たり待ち受けたりしておったのが、私と末永さん、西岡先生あたりのことではないかとこう思った。小学校のようにその屋上で体操をしておる。もうはらはらする様な体操をしておるというのは、今の合楽のご信者さんの姿であろうとこう思う。下から見とって、はらはらするぐらい。たくさんな烏がということは、夕べも秋永先生から聞かせて頂いたんですけれども、先日、幹部の集会が毎月あります。宮ノ陣教会でありまして、宮ノ陣教会で秋永先生が合楽の、いわゆる合楽示現活動の事についての大変な非難が、ごうごうとして起きておるということで、秋永先生がもういろいろと、それからあの大黒様奉斎のことやらが、それでずっとこうお話をさせて頂いた。お話をすればね、大体わかるような、ま、分かって下さった、というようなこと言っておりましたけれどもです、その世間がさわがしゅうなってくる。ね。まあ私は、思いますのに、合楽にさあ御大祭たんびに沢山の御信者が増えていく。
今まで三百位しか出なかった「おかげの泉」が、急に八百もでる様になる。だからそういう事実からみてもです、いかに合楽示現活動ということが素晴らしいかということが分かるじゃないですかと言うて、あの数字をあげて話したところが、皆さんが素晴らしいことだなあと言うた、とこう言うのです。
行徳清人先生がこちらから眺めて、そりゃあんた素晴らしいことじゃないか、というのは、いうならば本当に行が出来た人、本当に徳を受けた人なら本当にきよと。例えば、よそはどんどん繁盛しよる。それにです、腹が立つようなんじゃなくて、心の清らかな人がみたらです、今の合楽示現活動を素晴らしいことだ、と言うにちがいはないのですけれども、ね。何か間違ったことを教えたり、間違ったことをして、ただ人集めのことをしておるといった様な見方をする人の姿が、その烏の姿じゃないかと。騒がしいという時に、あの烏を頂くんです。世の中の、それこそ三千世界の、いうなら烏でも騒ぎ立てている。というて窓ぎわに止まって、窓の中には入りきらんといったような感じでした。ね。
末永先生たちが、そりゃもうやむにやまれない、今の合楽の信心を自分達の同期の者にも、ね、分からしたら、みんなも喜ぶことだろうという、ただ真心一心で、いうならばそれこそ、自費を費やしてということもあったろうと思います。
もう自分で何からかにまで、御用をさしてもろうて、ああいう催しをしたといった様な事がです、いうならね、もうほとんど全国から集まってましたからね。同期の先生方が。ですからそれがやはり問題に、まあそういうようなことが問題になっておる。そういうことがいうなら騒ぎ立てるもとになっておる。
だからそういう、ならこれから、この合楽示現活動が合楽教会だけでなくて、よその教会に、いや金光教の全般にわたってです、合楽示現活動が取り入れられる様になったら、例えば合楽がね、たったこの合楽示現活動という活動が始まってから、まあ数ケ月しか経たんのにです、新たな、いわば助かっていく人達が増えていく様にです、教団全体の上に新たなお道の信者が増えるならば、こんな素晴らしいことはないのです。
そういう素晴らしいものが生まれてくることのためのです、いうならば今は陣痛の時というか、ま、懐妊の時だというふうに思うのです。そこでせっかく生まれるならです、ただ生まれたというだけではなく、それこそ夜叉のような鬼のような子が生まれたんじゃいかんのですから、その受け方、頂き方がです、それも神ながらと、私が一番はじめに、このとにかく合楽示現活動ということが問題になって、そして告訴するの訴えるのといったような、ということを言う先生方がある。先生方が大変腹かいとる先生方があるという話を聞いた時に、はあ、示現活動ちゃ素晴らしいなあと私は思うたです。
こりゃちとやり過ぎだっても思わないし、あんたいらんことするからとも思わないし、そのことを聞いた時、瞬間です、いうなら神様がこの人達には言うて聞かせても分からない様な人にでもです、例えば、合楽示現活動を説明しなければならない。説明したら、そりゃまた素晴らしいことじゃないですかと、分かってもらえる内容をもっておるのですから、そりゃ素晴らしいことが起きてきた、というような受け方、頂き方なのです。
皆さんが願っておられるさまざまなおかげでもです、お願いをしておられるからおかげになりましょう。ということは、生まれるとは生まれましょう。けども生まれたそれがです、ね、鬼のごたる蛇のごたるというとじゃいかんでしょう。生まれた者がとにかく美しいきれいな赤ちゃんが生まれなきゃならん。ために胎教を大事にしなければならないということをです、いうならば今日は真の帯をせよということは、そういうことだと思うのです。
そういう、善しもなければ悪しもない。一切をおかげとして受ける、受け方、頂き方こそがです、真の帯だと思うのです。一つのおかげが産みだされるためには、やはり赤ちゃんがお腹の中に恵まれる。そうすると十月十日いう間をお母さんのお腹の中におらなければならないように、一つのおかげを頂くというてもです、そのおかげというのが、やはりいうなら十月十日という意味じゃないです。それを生み出されることのためにはです、それだけのやはり時間も、またはいうなら生みの苦しみも必ずあるのです。
だから妊産婦の方にです、こんな大きなお腹しとる人にです、はぁ本当に難儀なことですね、困ったことですねとは言わんでしょう。どういう例えば、難儀を感じておっても、おめでたいことだとしか言わないでしょう。それは良い新たな命が生まれて来ようとする前提だからなのです。
皆さん例えば、今難儀と言っておるのは、それを修行と頂き、修行と切替えて、それがよいおかげ、よい力、よいお徳の生まれてくる前提であるとするならばです、どんなそこに難儀な様子を見ましてもです、それは素晴らしい十月十日の間の、そういう良いものが生まれてくるための働きなのですから、それを大事にしなければいけません。又それは、いうならめでたいことなのです。
ですから今がどうせお願いをしとることだから、おかげになるに間違いはないけれどもです、ただおかげになったというだけ、ただ生まれたというだけではなくて、生まれてくるその赤ちゃんがです、きれいな、優しい、心の美しい赤ちゃんが生まれたらいいでしょう。せっかく頂くおかげならです、そういう有り難いおかげにつながる様なおかげの内容をもったおかげが、生みだされて来るところのおかげを頂かなければならない。
ただ苦しい苦しいで、ただおかげになったというだけではいけない。その苦しい事も、見方、頂き方では、有り難い、もったいないで受けられるのです。末永先生から見たならばです、それは良いものの生まれる前提ですから、今に素晴らしいおかげを受けられるのですから、めでたいことだと言う様に、あとは自身も思わなければいけんのです。
今日は、真の帯をせよということをね、今日私が、お夢の中に頂いた、それこそ、三千世界の烏がさわぎだす様な事になってもです、ね、そのこと事態を有り難いことだと。いよいよいうなら、三千世界にです、合楽示現活動が、ね、起こされてくる、いうなら胎動を感ずるような思いがいたします。どうぞ。